他人と比較しないの解釈

2015/11/26 追記

仏陀の言っている理屈(原始仏教)がよくわかるようになったのと、
愛・慈悲 の心を持って生きるというのが幸せに生きるための必須
条件と悟り得ました。ひたすらヨガの練習を何千時間かやって、アサナ
の練習はこれ以上やっても仕方ないと悟り、自問した結論としての
事です。(まぁ、今も好きなんで鍛えてますけど。→これは趣味。
できない時やら年取ったりしたらできなくなる事にはあまりこだわって
ません。)真理は真理だったという事ですね。

生きる上での苦しみはなくす事は不可能ですし(減らす事はできると
思います。)生きている以上は死ぬ訳ですが、あの世に持って行ける
ものはお金とか地位やら物質的なものではないです。

よって、何を成すか?ではなく、どう生きるか?が大切だと痛感して
ますね。(物質的に何も要らないと言ってる訳ではないです。困らない
程度のお金やらは必要ですし、精神的に余裕が無くなりますからね。)

この世は魂の修行の場所と言いますが(まぁ、こう思わないとやってら
れない事もあります。)、その通りだと思います。でも苦しい苦しいとあ
るけど、救いもある訳で、やはりそれは愛・慈悲の心だと思います。

まず自分を大切にする(過保護にするという意味ではない。)、そう
して、自分を好きになってからでいいので、周りから少しずつ与えて
いけばいいと思います。
———————————————————————-
一応はヨガブログなので、ヨガでよく言われる言葉について、
私なりの解釈と実際の体験から思えるようになった事を記載します。

まず、私はヨガインストラクターでもないし、それをする気もあり
ません。(人に教えるっていうの、向いてないし。)

ついでに言うと、ヨーガスートラも知らないし、インドも行く気ない。
流派もなし。特定の先生に師事した事もない、ただひたすら練習する
中でこうかなと思った事。滅茶苦茶高度なアサナはできないし、まぁ、
続ける以上はやるかも知れないけど、自分から進んではやんない。
これで飯を食ってる訳でもないし、いわゆるヨガ業界、それに携わる
人とは一歩距離があると思います。(金儲けになるからおかしくなる。)

他人と比較しないには段階があると思います。これはヨガではなく
何でも同じ。

この言葉、一見正しく聞こえますが、一見正しそうな事って意外に
そのまま鵜呑みにすると危険な言葉でもあります。

いいですか? 比較してよいのです。

まず、私はヨガのアサナで比較云々をするつもりはありません。ここは
各自が自分に満足できるまでやればいいだけの話だと思います。

ヨガは体力維持(何をするにも体力は大切)ができてれば、後は自己満足
の世界です。アサナが出来ても世間の荒波を乗り切る事はできませんから。
(極一部を除いて。)

まず、比較ですが、他人と比較する事で、自分の長所も短所も分かります。
他人と比較しない、人は人、自分は自分と割り切る事は、ややすると、比較
しないと言い聞かせているだけで、自分の殻の中にひきこもるのと同じと
思います。

比較して、他人の長所も短所も自分の長所も短所も分かるように
なり、補いあえるようになりなさい。それまで自分を高めなさい。周りも
同じなんだよ。というのが真意。
であれば、他人も同じように生きている人間なのだから、比較する必要
すらなかった。という事に繋がります。

簡単に言えば、まずは、自分を自分で肯定できるように生きなさい。
の一言に集約されます。自分と人を比較して劣等感があるから、比較しない
という言葉を隠れ蓑にしてやらないでいい言い訳にしてるところない
ですかね?自己弁護に、できなくてもいい。比較しない。という言葉を
使ってる人が多いような。
では、どうすればいいのでしょうか?

1.まず、他人を意識せずに自分を見つめる。(第一段階)

この段階は、意識的には他人とまだ比較してしまっている段階。
比較しないようにしようとしてる時点で潜在意識で比較してる。

何故か?
自分の弱さと立ち向かう強さがないから。自分の中の嫌だと
思う自分、弱さと真に向き合う決意がないから、人は人、自分は
自分と言い聞かす事でしか、自分を保てないんだというのが私の
解釈。

この段階から次の解釈に行くには、本当の意味で、自分の中の弱さ
を認めて、受け入れていくという強い決意と実践がない(全ては
自己責任で他人の責任にしない。他人を恨まない。と覚悟を決めて
やる。)と行けない。と思いますが、これをやるのは相当難しいと
思います。

誰もが小さい頃から育て上げてきた自我っていうのがあると思う
けど、潜在意識の中ではそれを守る事でしか人間って生きていけない
と思うから。それを否定する事は、自分で自分を殺してしまう事
と同じだから。

で、私は大いに、比較していいと思います。だって、できないし、
弱いんだから仕方ない。でもそんな自分と向き合う決意もしたの
だから。まず、自分がどうしてもやりたい事(必要な事。それを
やっても、食っていけない事はまず後回しにしましょう。)を決め
る。

この段階を決意したら、後は継続が必要。多大な努力と時間をかけて
向き合わないといけない。1年、2年、3年、何年かかるかは、分かり
ませんが。実践あるのみです。理屈は分かっていても実践が伴わない
と結果も絶対にでません。インターネットで世界の事を知った気に
なっても実際の世界は飛び出ない限り絶対にわからないのと同じです。
体力も当然必要です。体力がないと気力も出てきませんので。
くじけそうになったら、カーネギーの道は開ける。という本を読むと
いいと思います。(現実路線)

道は開ける 新装版 道は開ける 新装版
(1999/10)
デール カーネギー、Dale Carnegie 他商品詳細を見る

今日一日だけ頑張るで、明日の事は考えないで、とにかく今日一日だけを
繰り返す。(何でもいいので、自分にとって為になる事。私の場合は、身体
を鍛える事で、人間として成長する。というだけの事です。ヨガの練習はそ
れ。終わりないら。何でも健康じゃないと余裕って出ないと思う。)

この段階では、多少サボっても仕方ないので、とにかく、出来うる限り継続する
事が大切だと思います。最初は、あぁだこうだという人や、それに負けそうにな
る自分やらが沢山出てきます。あるいは、あなたから去っていく人もいると思い
ますが、とにかく、自分がこうなるんだという決意を大切にする事だと思います。

いなくなる人なんて所詮それまでの人間関係だったんですよ。あなたが弱かった
から、一緒にいる事で安心してた。あなたが変わろうとするから、変わってほし
くないから、あぁだこうだ言うんですよ。(自分より優れていく存在を認められ
ない存在)

人間弱いから、自分と同じ考え、自分と同じ欠点を持った人と一緒にいると
安心するところがある。だけど、本当の仲間とか認め合える人っていうのは、
私の考えでは、違った経験、違った長所、欠点があっても、それらを認めて
補い合って成長できるのが、本当の仲間であり、友達ではないかなと思います。

周りにいないなら、一人で行った方がいい。と私は思いますけどね。(縁を
切れ、という事ではなく、知人くらいで考えておけばいい。)

自分と向き合うとヨガでは言いますが、私は、あまりに自分の内側に意識
をやりすぎるのはよくないという立場です。どんだけ見つめても、分からな
い事ばっかだから。

また、自閉症とか鬱病って意識が外に向かう事がないからそうなるそうです。
内観もあまりに度を過ぎると自分以外が見えなくなる。比較しすぎもよくな
いけど、周りにも目を向けようよという姿勢です。

瞑想にしても無なんて不可能というのが私の立ち位置ですから。
努力しない人は、ほっといていいと思いますよ。別にあなたに危害を加える
事もないし、やるやらないは自己責任ですから。悪口言われたり、訳の
わからないねたみややっかみはあるでしょうが、言わせておけばいいと
思います。

2.比較していい。という段階(第二段階 私はここ。サボるとまた1に
戻る。行ったり来たり)

1.を通り越す頃には、自分の弱さと向き合う事はできてると思います。
(私は毎日やって、3年(約千日の修行)かかりました。
私の経験上、どんだけやっても本当の意味で強い心を作る事は無理。
なので、私も日によって、弱かったり、日によって強かったりします。
まぁ、いいんですよ。弱くもないから。

私の考え方ですが、他人を変える事はできないし、何を考えてるかは
分からない。自分がした事で相手が意図した事とは違い、自分に対して
怒ったり、恨みを買ったりする事があっても、まぁ、私はそんなつもり
じゃないんだけど、相手がそうとるならまぁ、仕方ないな。と思えるよ
うになりました。

もちろん、意図的に相手を傷つけようとした訳ではないけど(意識的
にやる人も世の中には沢山いる。)、相手がそうとるなら仕方ない。
謝っても相手が許さないなら、まぁ、しょうがないなと思えるようにな
ります。(もちろん、自分が悪かったなら反省はしますが、相手もそう
取らないならどうしようもない。)

必要以上に他人の目や意識を気にしなくてよくなるし、相手が何をしてようが、
(自分に意図的に危害を加えようとしない限りね。そこまで出来た人間じゃない。)
気にならなくなる。

反省できる人の失敗はできうる限り、許しましょう。あなたも許されて
来たんだから。また、自分中心になります。(自己中心とはまた違う。
何をしても良い訳じゃないし、何を言ってもいい訳でもない。)相手も
自分中心でいいと思うし、相手にもプライドがあるという事が理解できます。

相手が勝手に私をこういう人間だとレッテル貼られても、まぁ、相手が
どう考えるかはわかんないから仕方ない。その頭の中で作り上げた私の
イメージがあなたの心を表してるような、、、と思える時もあります。
もちろん、そういうイメージもまた私の一部だと思いますが。

いい意味で自分は自分、人は人となってきたと思いますが、割り切っても
いない。他人と関わらず生きていく事って無理だから、その中でいい思いも、
悪い思いもすると思うけれど、その影響の中で、自分の心も変われば、自分
の中に他人がいる事だってあるし、逆に相手の中に自分の姿がある事もある
んじゃないかなと思えるようになりました。
だったら、

・比較しないんではなく、比較してもいい。 ただ、そこに優劣はない。
単なる違い、役割が違うだけだ。

と思いますが。もちろん、そう思えない日も沢山あるし、書いてるほど
人間できてませんけどね。基本的な考え方のベースが変わったのは事実です。

これが理解できない人の頭の中を一言でいうと、

・周りの人間はロボットだと思ってる。

って事。自分だってあれこれ考えるんだから、周りの人間だっていろいろ
と思うのだから、それを忘れるなって事。抱えてるものなんか人それぞれ
違うのだから、自分だけがしんどい。と思って、周りを恨む気持ち、周りは
楽だと思う気持ちを少しでも排除していけば、また違った世界が見えてくる
と思う。

自分なりの生き方を精一杯やりなさい。という事だと思うんですけどね。
これをやってないからグタグダと文句を言ったり、人と比較して嫉妬した
り、やっかみをもったりするんだと私は思います。自分を肯定できる人は
他人も肯定できると思います。(ただし、全てではないですが。)

3.私もわかんない。(第三段階)

死ぬまでに私が到達できるかは不明。

これが、私なりの 人と比較しない の解釈です。(2014年1月の段階ね。
2012年の夏にここに至った。3年間、毎日ひたすら練習をして、その練習の
過程の中で自分の心の変化を観察していった結果です。非常に苦しい3年だ
った。周りからヨガじゃないとか非難浴びまくったし、そうではないのに
誤解されたり、逆に陰であれこれ言う人が沢山いたり(これは今もそう。)
しましたが、まぁ、必要な期間だったと思います。

そこで安易な方向に流れた事は一度もないし、この6年間に限っては、
自分をダメだと思った事は一度もない。ので。

生きるのは多少楽になったと思います。

最後に書きますが、ヨガをやって幸せ云々は私はない。と思います。修行して
どうなるとかもない。プラーナとかもまぁ、錯覚でしょうし、クンダリニー
やら超常現象はない。というのが私の考えです。

もちろん、そう思う人は自分で心からそう思い込んでいるのだと思います。
それは別に全く悪いことではないので、言及もしません。私も神様はまぁ、
いるんじゃないかという立場なので。

ただ、そこに過信しすぎてもいけないという立場です。(やり過ぎるとカルトに
なる。自分が信じる事以外はおかしいとなるとその考え方自体がおかしく
なるような、、、)

自分が自分をどう思うかが大切だと思います。比較はしていいけど、必要
以上に比較しないし、自分と人の優劣を心の底から排除するためにこの言葉
があるんじゃないかなぁと。

自分が嫌だと思う自分を自分で変えてあげてください。世界が変わりますよ
と言いたいのです。ただし、自己責任なので、私は責任取りません。私は
私に対しては責任は取ります。

大人でも上記が分かってない人は沢山います。(身体は大人でも、中身は
幼稚な考えの人。)まぁ、私もそこまでできた人間ではないけどね。

上記は全部自説なので、正しいとするつもりはありませんし、考え方も
変わると思うので、変わったらまた更新予定。